1996年中国・ラオス・ベトナムの旅⑥:ハノイからフエ・ダナン・ホイアンと縦断しサイゴンへ

ラオスのビエンチャンから空路ベトナムに入国。ハノイ・ノイバイ空港から旧市街まで移動。宿はホアンキエム湖周辺にした。早速旧市街を散歩してみる。ラオスよりも活発な経済の様子がすぐにわかる。


筆者の世代、「ベトナム戦争」は歴史の教科書に出てくる単なる過去の出来事などではなく、子供の頃テレビのニュースで見たりしていて、同じ時間の中で起こっていた出来事であった。

ハノイの青空を見上げ、ふと「北爆」なんていう言葉が浮かんできたりするのである。

旧市街から徒歩県内に戦争博物館があったので行ってみた。
米軍の航空機のものと見られる空冷星型エンジン。残骸として置きっぱなし状態。現在ならもっと展示物らしくしていることだろう。


さて、ハノイ滞在のあとはベトナムを縦断しサイゴン(ホーチミン)へと向かう。旅行会社「シンカフェ」のハノイ支社で南行きのチケットを買ったはずなのだが、メモなどはもう残っていなかったので、料金やスケジュールは不明。

直通ではなく途中のフエ、ダナン、ホイアンなどで宿泊を入れながら下っていくバス旅である。

フエの街を散歩すると、人懐こいティーンエイジャーがよって来た。
ベトナ厶戦争では、フエは激戦地であった。でも、きみたちの明るい笑顔に未来はある。
有刺鉄線の向こうには、戦車が野ざらしのままで放置されていた。

また、フエではDMZ(DeMilitarized Zone=非武装地帯)ツアーに参加した。

下の3か所の他に地下トンネルなども見学できた。

ダクロンブリッジ。ホーチミンルートに繋がり物資の補給路の重要な橋。
数あるホーチミンルートのうちの一つ。北から南へ弾薬や食料、その他物資が運ばれていった。この道のずっと先にハンバーガー・ヒルがあるらしい。
米軍のケサン基地跡でガイドから説明を受ける。



フエで乗客を拾ったバスは、国道1号線の最大の難所であるハイバン峠を越えるとダナンに到着する。次の街ホイアンまでは、それほど距離はない。

どこかで会った日本人旅行者に「ホイアンはのんびりできて良いところだ」と聞いていて、実際来てみたらその通りで良い場所であった。上のアイキャッチ画像は有名な日本人橋。

日本人橋
旧市街
実は「アオザイ」を普段着ている女子は少ない。こういうパジャマみたいなのが普段着のようだ
このお姉さんはホテルの受付の人なので、アオザイを着ている。
青空市場のおばさん達は、全員パジャマ風な服を着ていた。

ホイアンの次はニャチャンで一泊し、その後サイゴンに到着した。サイゴンでは中心部1区のファングーラオ通りとブイビエン通りに挟まれた狭い路地にある小さな宿に宿泊した。

ファングーラオ通りには、いつも古いフランス車が路駐していて「ありし日のサイゴン」を想像できる。


外国人旅行者が集まるファングーラオ通りから歩いて行ける距離の所に、「ベトナム戦争証跡博物館」があるので行ってみた。ハノイの博物館よりも展示物は豊富で、内容もかなり濃いものがあった。中には視線を外したくなるものも当然あり、リアルな戦争被害の実態がわかる博物館であった。

私は映画はわりとよく見る方だ。好きなジャンルの一つが戦争映画。日本で見ることができるベトナム戦争の映画は、ほぼ全てアメリカ製なので、それはつまり私たちもアメリカ側の論理で見ていることになる。ある時それが疑問に感じた。

今回の旅で、ベトナム側から見たベトナム戦争を少しは知ることができて、自分なりの「答え合わせ」がまあまあできたつもりである。

館内で流されていたモノクロの映像の中に印象的なものがあった。米軍と戦う前線の部隊をサポートする内容を撮ったもので、それは「食」だ。ホーチミンルートを使い、米などの食材や生きた家畜までも前線まで届けられていた。煮炊きの道具までも運んでいる場面もあった。弾薬も大事であろう、しかし食べないと戦えないのだ。敗北しベトナムから追い出された、米軍の食事を見るとわかる(あくまでも映画でだが)。缶詰とビスケット主体の携行食料では、長期の戦闘は無理なのだ


旅行なんて結局は「遊び」なわけではあるけれど、その国に来てみるとその国が持ついろんな部分を見て、食べて、感じて、知ることができる。それでもおそらく、旅行者が分かることなんて表面的なことだけだ。

けれどそれは、未知の場所への好奇心にいざなわれるままに、旅人となった者だけが得られる特別な経験なのだ。

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