タシクルガンの少女:最果ての外国語学習者

ある時出会った誰かの行動を見て気持ちが動かされ、その後の自分の人生で何かが少し変わった、などという事は誰にでも多少はあるはずだ。

これから書くのは、以前中国タシクルガンで出会った少女が私の語学の勉強に影響を与えた、おふざけ無しの真面目な話しである。

このブログを読んでる皆さんは、海外旅行に関心のある方がほとんどだと思うし、そういった層は好むと好まざるとにかかわらず外国語に接しているはずで、中には腕に覚えのある方も相当数いることだろう。

「語学の習得」、なんとなく知的でくすぐられるような響きもするし、だけどどことなく照れくさい感じもする。どしてだろう。

「あたし英語の勉強始めようと思うんだよね」多分よく見聞きするフレーズだ。本人はそれなりに真剣モード。しかし周囲はうっすらと冷めた目だ。「そんなんぜってー無理じゃん」こう思ってるからだ。だいたいの人が肌感覚で解っているのだ。道のりは長くてしかも険しい、そこには高確率での敗退が待ち受けていると。

「英語始めまーす」と宣言した時の頭の片隅に、撤退した時の「てへへ」ってなる自分が見えるので照れくさくもあるのだ。

一方でそれなりの領域までたどり着く学習者だっている。「あいつは語学の才能があるからな」とか「留学(駅前・ホントの外国問わず)する金がある奴は有利だよな」とか言うが、その評価は間違っている。

1986年私は二度目の海外一人旅に出た。船で上海に渡り、中国を横断してパキスタン・インド・ネパールを陸路で行くルートだ。

上海からウルムチ、トルファンを経由しいろんなものに悩まされながら、ようやくカシュガルまでたどり着いた。そしてカシュガルからその先パキスタンまでは、まるで情報のない辺境地域が広がる。なにしろこの1986年に初めて、中国パキスタン国境クンジェラブ峠が外国人に開放されたばかりなのだ。

結局私たち旅行者が使えた方法は、宿の仲介でランドクルーザーをチャーターして、クンジェラブ峠を越えパキスタン国境側イミグレーションのあるスーストまで行くというこれ一択だけであった。

国籍バラバラの旅行者5人を乗せ、ウイグル人ドライバーはランクル70を走らせる。タクラマカン砂漠の荒れた未舗装の道はどこまでも続いていた。やがて日が落ち夜となった。運転手がどこかで車を止めると、ここで一泊だと言う。小さな宿があった。

翌朝外に出てみると、濃い色の空の下に荒涼とした土地が広がり、周囲にわずかな建物だけが見える。ここはタシクルガンという場所だと言われた。パミール高原の最果て、パキスタン国境への中国最後の集落だ。

宿に戻ると朝食が始まっていた。テーブルにつくランクル仲間の白人氏の肩越しに少女がいた。宿の娘か。手に本を持っている。英語の教科書だ。ページを開き文を指差し、読んでみてくれと言ってるようだ。白人氏が教科書を手に取り読んでみせる。少女は口の中でブツブツ言うと、今度は声に出してみた。白人氏が微笑んでみせた。少女は次の行もせがんだ。そして次の行も。

宿の主人に追い払らわれて少女がいなくなるまで、私はその光景をじっと見ていた。そのまま見ていた。

ある時ひょんなことからフランス語に興味が湧いて、旅行レベルを目標に勉強を始めた。初中級レベルの仏検3級をゲットした。数年後今度は韓国語に手を出した。同様に韓国語検定初中級レベルに合格した。会社で海外勤務の公募があったので、他人との差別化のためTOEIC高得点を狙い875点のスコアを会社に提出した(採用になったが勤務地は中国だった)。その後そのうち何かの役に立つかもしれないと思い、英語通訳案内士の試験を受験し合格した。

語学の勉強をし始めると、いつも必ずタシクルガンで出会った少女の事が頭に浮かぶ。

およそ何もない環境で、通り過ぎる旅行者を相手に自分ができる唯一の方法で「語学の習得」を目指していたのではないかと。「外国語が話せたら、きっと楽しいだろうな」

私もそう思うのだ。

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